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2008年05月12日更新
風説の時代

大熊  秀治

大熊 秀治・写真
  江戸中期の十八世紀後半、女流文学者が現れた。只野真葛。仙台藩伊達家の重臣、千二百石取りの只野伊賀行義(つらよし)の未亡人である。
  その書くものは、自分の生まれ育ちや家族、一族の話、身辺雑記など、さらには社会や政治問題への辛らつな批判も交えた評論にまで及ぶが、自分の身分や当時の女性に対する社会的制約などにも全くとらわれない自由闊達な筆致である。現代では、平安時代の清少納言の再来とまでいう高い評価がある。
  その真葛が「むかしばなし」のなかで懐かしく父を回想している。
「父様御名の広まりしは二十四五よりのことなり。三十にならせられる頃は、はや長崎・松前など遠国より高名を慕いて御弟子にと志して入り来たりし」   その「父様」が工藤平助、医師としての名は球卿,仙台藩の医師である。だが、二百石を給せられるれっきとした藩士でありながら、藩邸に居住せず、江戸の街中に住んで自由に診療するのを許されていた特異な存在だった。名医としての評判が高く、蘭方医でないものの蘭学の造詣もあり、交際する範囲は広く、真葛が書くように北は北海道の松前藩、南は九州の長崎にまで知己を持っていた。築地にあった二階家の豪華な屋敷には、上は大名から下はやくざまで、診療目的であろうとなかろうと、多くの人々が出入りした。
  江戸は、幕府はいうまでもなく諸国大名の藩邸、旗本屋敷が集中する政治都市。それだけに政治活動、情報収集が活発だった。その中で、町医者という立場は僧侶と並んで士農工商の身分や格式を超えて人々に自由に接触できるという有利さを持っていた。
  工藤平助はむしろ藩の意向を受けて積極的に活動する非公式の外交官であり、情報官であった。その屋敷は膨大な情報が集散する一大サロンだったといっていい。
  真葛は工藤の長女として、そうした環境の中で生まれ育ったわけだから、型破りの女性になったのも当然といわなければならない。
  さて、その「むかしばなし」にいう。
  「あるとき公用人(老中田沼意次の用人・三浦庄司)と差し向かいにて用談終わって咄しのうち用人いう、『我が主人は富にも禄にも官位にも不足なし。この上の願いには田沼老中の時仕おきらることにて、長き世に人のためになることをしおきたき願いなり、何わざをしたらよからんか』と問い合せしに、父様御答えに(略)『それ蝦夷国は松前よりじつづきにて日本へ世々随いいる国なり、これをひらきて貢物をとる工面をなされかし(略)』と。

  もちろん、平助が真葛ら年若い娘たちに話して聞かせた内容だから、かいつまんだ分かりやすい筋道になっていると思われる。だが、当時の最高権力者・田沼意次の秘書官長というべき人がわざわざ工藤家を訪れて、平助と蝦夷地経営について意見を交わし、それに基づいて平助が正式に書面で意見具申をしたのは、紛れもない事実だ。
  その書が「赤蝦夷風説考」二巻である。
  「赤蝦夷」の蝦夷は、いうまでもなく現在の北海道、そしてその住民であるアイヌを指した。蝦夷の北、サハリンを「奥蝦夷」といい、千島列島に住むアイヌを「島蝦夷」と呼ぶ。赤蝦夷はさらに北、カムチャツカあたりから現れるロシア系の人々のことである。 「風説」とは風の便り。噂話だ。だが、平助の仕入れた噂は、蝦夷地の松前藩の要人から直接聞いたものであり、他方、友人である長崎の大通辞(筆頭通訳)、吉雄耕牛を通じて流れ込んだオランダ情報で裏打ちしている。平助自身、「ゼオガラヒ(万国地理誌)」「ベシケレイヒング・ハン・リュスランド(ロシア誌)」などの外国書を入手して、知識の正確さを期している。
  その風説考の第一巻で、平助はいう。
赤蝦夷はカムサスカ(カムチャツカ)からやって来るが、本国はオロシヤであり、リュス国も同じである。
明和七年にハンペンゴロが漂着して、オロシヤが来襲の準備をしていると警告したが、それは信じがたい。赤蝦夷が欲しているのは交易(通商)である。
後に判明するのだが、ハンペンゴロはハンガリー人でポーランド軍に参加してロシアと闘い捕虜になってカムチャツカに流された。しかし、隙を見て脱出、船を奪って帰国の途中、日本の阿波(徳島県)に漂着した。本名ベニョフスキ・モウリス(BnyovszkyMoric)。オランダ人や通辞の誤読からベンゴロとなり、貴族の称号を示すハン(ファン、フォン)が付いてハンペンゴロとなったと思われる。
離日に当たって、長崎のオランダ商館長宛に書簡を送ったが、その内容が問題とされた。風説考が書かれる天明三年(一七八三)の十二年前のことである。
しかし、平助はオロシヤ侵略説を退け、日本貿易で独占的地位を占めるオランダがオロシヤの参入に警戒感もっていることの表れではないかと分析している。当時としては,卓見というべきだろう。
  むしろ、彼が問題としたのは、次の二点である。
  第一に、松前藩が蝦夷地の徴税権を商人に委託したために、抜け荷(密貿易)が横行していること。
  第二に、オロシヤと蝦夷との直接取引を放置すれば、蝦夷がオロシヤの意向を重んじてわが幕府の指示が無視されるようになること。
  その上で、幕府が蝦夷地の金銀銅といった鉱物資源を開発し、オロシヤと直接交易に乗り出すことを強く献言している。
  第二巻は、オロシヤの解説。その建国の歴史からピョートル大帝から当時の女帝エカテリーナ二世にまで言及する。エウロパ(ヨーロッパ)に近接するモスコビヤが国の中心で東に勢力を伸ばし、カムサスカに至るが、すべてまとめてオロシヤという、と解説する。シベリヤ支配では兵の威力を以て逆賊を従え、人々を慰撫する政略で慕われたと好意的である。
  この意見書は重大な意味を含んでいる。徳川幕府の根幹をなす鎖国令の修正、ないしは空洞化を推進しようとしているからである。
  しかし、驚いたことに、勘定奉行(財務・総務大臣に当たるか)の松本伊豆守持秀は工藤平助を呼び出し、改めてその意見を聴取した上で、田沼老中に政策として具体化するように上申したのである。
  そして、その翌年には蝦夷探検の先遣隊を出発させ、一方では伊勢(三重県)で探検隊用の特別船、神通丸と五社丸の二隻を建造するという急ピッチ。事前に周到な話し合いがなされていたことを物語ると同時に、田沼老中の並々ならぬ決意を示していると思われる。
  探検隊は二年後の天明五年〈一七八五〉には行動を開始、翌年末まで千島のエトロフ、クルップ島を含む東西蝦夷地を実地踏査した。しかし、このとき江戸では大政変が起きていた。田沼の後ろ盾になっていた将軍家治が急死、田沼は失脚して、探検中止令が出されたのである。

  新たに政権をにぎった松平定信は、田沼派の一掃を謀り、探検隊にかかわった人々を追い落としていく。もちろん、蝦夷地開発、赤蝦夷との交易政策など以ての外。工藤平助の赤蝦夷風説考など無視されるだけでなく、平助自身が危うくなりかねない事態になった。そうした風潮のなかで、いわゆる「寛政の改革」が進んでいく。
  平助にとって不都合なことが重なる。後に「寛政の三奇人」といわれるうちのひとり、林子平がその年に「海国兵談」を世に出し、海防の急務を説いたが、幕府の政策を批判するとして、その身は国元にお預け、書・版木は没収の処分を受けた。子平が同じ仙台藩士の子弟であり,平助に私淑していたこともあって、平助は海国兵談の出版費用の募金呼びかけ人になり、序文も書いていたのだ。
  結果的には、平助には何のお咎めもなかった。だが、平助が政治の表舞台に躍り出て、影響力を発揮する機会も二度と訪れなかった。同時に、平助が風説を集め、解き明かしていった事実もまた「風説」のなかに押し込められていく。
  そして、六年後の寛政五年(一七九二)、ロシアの正式な使節として、アダム・ラクスマンが漂流民・大黒屋光太夫と磯吉を伴なって函館に来航、幕府を驚愕させた。
  そのとき、詳細な聞き書きを作成したのが、幕府お抱えの蘭学者桂川甫周である。只野真葛が「桂川甫周様など毎日のようにお越し」と書いたように、平助の屋敷に入り浸っていたあの人物である。平助の素志がまわり廻って、再び芽を吹くチャンスではあった。 しかし、その報告書は国内に動揺を与えるという理由で、幕府の文庫の奥に収められ、光太夫と磯吉は小石川の薬草園に軟禁されて終わった。幕末まで日本は、風説はそのまま封じ込め、事実と向き合うことがなかった。(完)

大熊 秀治:元東京新聞モスクワ支局長