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2011年05月16日更新
『北方領土のカピタン』
 ―60年ぶり郷里の歯舞島訪問記―

児玉  泰子

    
  私は、1944年秋、歯舞群島の志発島で生まれた。生家は昆布漁を営んでいたが、父は馬の扱いに長けていたので軍隊から軍馬の管理と飼育を任されていた。

  私の1歳の誕生日を間近にしたある日、沖合いに軍艦が現れ、島にソ連軍が上陸してきた。

  この日からソ連軍監視の下で2年間生活した。私には全く記憶がないが、家族はこの間の生活の ことを再三話していた。話の中で私が一番興味を持ったのは、ソ連の隊長さん(カピタン)のことだった。話を聞くたびに、この隊長さんといつか会いたいと思うようになった。

  1945年9月、島に上陸したソ連兵は、銃を抱え土足で部屋に入ってきた。ロシア語も分からないので、恐ろしく、震え上がった。

  当時、我が家は10人の大家族だった。銃を抱えた兵を目にした母は、とっさに私を抱え屋根裏に 隠れたそうだ。その日から、母と私の屋根裏部屋での生活が始まった。ある日、屋根裏から居間に 降りてきた時、運悪くソ連の兵隊が入ってきた。家族は、隠れていたことがばれたので凍りついた。

  その時、隊長は両手を出し、笑顔で私を抱きかかえたいしぐさをしたそうだ。母は恐る恐る私を彼に渡した。隊長は上手にあやし、身振り手振りで自分にもこのくらいの子どもがいると表現したのだ。 母は彼のしぐさを見て、恐ろしいと思っていたソ連兵も心優しい普通の父親なのだと思い、恐ろしさは消え親しみを感じたそうだ。私とロシア人の初めての出会いである。

  翌日から、隊長は毎日我が家を訪れ、私を抱き父が育てている馬で島内を巡回するのが日課になった。隊長が我が家の前で「タイカー(たいこ)」と呼ぶと、ヨチヨチ歩きの私は彼の元に向かったそうだ。馬上の二人の姿は本当の親子のように見えたらしい。隊長は馬の扱いに長けている父に一目置いた。馬と私が、隊長と私の家族を結びつけたのだ。

  隊長は、私の家族だけに優しかったわけではない。ソ連兵と日本人の間でトラブルが発生すると、 わけ隔てなく両方の話を聞き問題を処理してくれたので、日本人からも「カピタン」と呼ばれ信頼されたそうだ。

  1947年秋、私たち家族が島を離れる時が来た。隊長は、「必ず帰ってこいよ。樺太に送られるので、食料と暖かい衣類を持つとよい。」とアドバイスしてくれたそうだ。

  送還の集合地点は島の西側になった。東側で生活していた私の家族は、わずかな荷物を手に、  母は生後一ヶ月の妹を背負い、私は父が背負ったリュックの上に乗せられ、11人で集合地点まで歩いた。集合地点には隊長が待っていた。点検を済ませ、小船で沖合いに停泊しているソ連の貨物船に向かった。そして船が動き出した。この間、隊長は浜辺に立ち、見守ってくれた。船が動くと手を振りいつまでも見送ってくれたそうだ。

  送還は過酷で、体力のない老人や幼子は死亡したが、私たちの家族は隊長のアドバイスのお蔭で飢えと寒さにも耐え抜き、樺太経由で北海道にたどり着くことができた。

  戦後、根室から故郷の島を眺めては、隊長は今でも住んでいるのか、隊長の子供は元気かと色々想像を巡らせた。そして、再び隊長さんと会えることを念じた。しかし、長い歳月の間に、祖父も祖母も父も叔父も叔母も死亡した。母は90歳を超え、当時のことを話すことができなくなった。おそらく隊長も亡くなったであろう。隊長の子供は存命だろうか・・・。

  2008年夏、志発島の生家跡を訪問した。島は一面草に覆われ、家は一軒も見当たらない。話に 聞いていた故郷とは異なる荒涼とした別世界だった。

  胸まで生い茂った草原を掻き分け、無我夢中で生家の方向に足を進めた。やっと生家跡にたどり 着いた時には、汗でびっしょりだった。草の中で可憐な花々が咲いていた。その一角で鉄の馬橇を 見つけた。父が使用していたものだ。故郷を馬で駆け回っていた証である。

  野生馬の群れが駆けている。日本人が置いてきた馬の子孫である。群れの中に父が育てていた  馬の子孫もいるのではと思い懐かしかった。

  目を閉じ、胸一杯に故郷の空気を吸い、故郷を堪能した。出迎えた国境警備隊員に幼き日に出会った隊長さんとのことを話した。彼は、隊長の名前はわからなくてもせめて肩の星の数がわかれば調べられるかもしれない、と言った。私にはどちらもわからないが、60年前に私たちと彼らの先輩とが理解しあって生活していたことを伝えることができた。

  長い間願っていた幼き日に出会った隊長には会えなかったが、今回会った国境警備隊員に何故か幼き日に出会った隊長を重ね合わせることができ、やっと長年の思いが叶ったような気がした。

  そして、60年前に隊長が最後に見送ってくれた島の西側を訪れたいと思った。2010年願いが   叶い、ここを訪問する機会が与えられた。

  幸い好天に恵まれ、海は荒れず予定どおり島に向かい航行し、船は島の近くに停泊した。

  上陸日の午前3時、空が明るくなり周辺の島がぼんやりと見えてきた。4時、島の東側、私の生家の方向から太陽が昇ってきた。太陽が昇ると、洋上にキラキラと金色の光の帯ができた。まるで故郷へ向かう希望の光の道のようで、涙がこぼれた。

  上陸地点は、私たちが奇しくも送還船に乗せられた場所だった。出迎えた国境警備隊員は2008年の時と同じ人だった。

  浜辺を散策した。草原に風が吹き、洋上には我々が乗ってきた船が見える。60年前、隊長はここから見送ってくれたのだ。帰りの時間が来た。洋上から遠ざかる船に手を振った。陸から国境警備隊員が手を振ってくれた。60年前と同じように。


児玉 泰子 : 北方領土志発島元島民、ユーラシア21研究所監事